SLAYER/「The Repentless Killogy」(2019)
(このレビューは2019年12月31日にFacebookに書いたものを再編集したものです)
大晦日。
2019年、12月31日。
あともうほんの数時間で、この2019年が、つまりは2010年代が、以降「テン年代」と呼ぶことにするが、それが終わろうとしている。
そんなまさに時代の節目に、ぼくはこれを書いている。
終わりゆく、テン年代なるもの。いうなればこのテン年代という一つの時代の締めくくり、墓碑として、ぼくはこの記事を残そうと今、している。
では一体、ここにぼくは何を残そうとしているのか。
それは、このテン年代というのは、「メタルのヘヴィネス」の壊死の時代であったのではないか、ということだ。
壊死。ネクローシス。
辞書には、「壊死:生体の一部の組織・細胞が死ぬこと」とあるようだが、まさにそうやってメタルのヘヴィネスは、このテン年代にさながら壊死していった。
それは一体、どういうことか。
それを説くためには、「メタルのツール化の時代」についてから、順を追って話さねばならない。
さて、そもそもなのだが、メタルは、HEAVY METALは、ツール化の時代に入っている。そうぼくが論陣を張ったのは、思えばこのテン年代の始まりの頃のことだった。
つまりは、今からすでに10年も前のことである。
メタル、HEAVY METAL、HR/HM。
どんな呼び名でもいいのだが、かつてそう呼ばれていたものは、すでに10年以上も前に、解体され、破片となり、記号化され、何かを表し示すために使われる「ツール」となっていった。
そしてその結果、最早メタルであるということはそのツールの使い方の話でしかなくなり、そしてメタルはツールになっていった。
すなわち、これが「メタルのツール化」の時代である。そうぼくは、このときに書いた。
(当時それを題材にして書いたBABYMETALという存在を考えてみて欲しい。)
少し抽象的な論であるのだが、以下もう少し詳しく解説しよう。
ツール、つまりは「道具」だ。
そして「道具」そのもの自体に、「意味」はない。
何かある「目的」を果たすために、道具は、ツールは、ただ使われる。
いわく、「これを表現するために、”あえて”メタルを使う」。
「メタルのツール化」の時代では、そういった存在にメタルがなっていった、ということである。
そう、物知りな方ならご理解されたかもしれないが、「メタルのツール化」とは、要するに「メタルの再帰性」の時代のことだ。(※注釈1)
「メタルの再帰性」とは、ただ素朴にメタルを演じるのではなく、ある音楽表現をするという意識のもとでメタルを選択して取り入れ行う、ということである。
もう一度繰り返す。「これを表現するために、”あえて”メタルを使う」。これだ。
では、これを様々なバンド名に変えると、どうだ。
IRON MAIDENは、METALLICAは、DREAM THEATERは、各々、自己の音楽をそう表現するために、”あえて”メタルを選択し、使う。と、その「メタル」への前提意識、選択の再帰的な態度こそが、「メタルのツール化」=「メタル再帰性」の時代だ、ということだ。
さて。
そうぼくが論じてから、それなりに年月が過ぎてしまった。
では今は、どうだろう。
それは緩やかに、しかし確かに今もなおゆっくりと進行していないだろうか。
そして同時に、それが進めたこと。
それはツール化による、メタルのヘヴィネスの形骸化、無意味化、である。
ロックにおけるヘヴィネス。
ツール化したメタルの要素たる、ヘヴィネス。
例えば、ハードネス、アグレッション、ファストネス、ダークネス、エクストリミティ、ネガティビティ、等々。
それらこそが、これまでロックをロックたらしめ、メタルをメタルたらしめてきた他ならぬファクターだ。
激しいから。
うるさいから。
重いから。
速いから。
荒いから。
過激だから。
だから、ロックは格好いいのだ。
価値があるのだ。
先鋭なのだ。
最先端を切り開けるのだ。云々。
そんな、古臭く、そして淡く拙くたわいない、ロックの共有幻想。
ロックのフィクション。
ロックのロマン。
ロックの希望。
そして。その、喪失。
結果、今やメタルのヘヴィネスとは、ツール化の、つまり「これを表現するために、”あえて”メタルを使」った再帰性の、その単なる産物でしかならなくなってしまった。
そこに、「ヘヴィであることの意味や意義」は、少なくとも以前に比べれば希薄化してはいないだろうか。
無論、そんなことは遥か前から始まっていたことなのだが、それがこのテン年代で、緩やかに、しかし確かに進行した。とまあ、これがぼくの見立てである。
しかも、だ。
そんなメタルのヘヴィネスは、その意味性は、さらに今からゆっくりと、死につつあるのではないだろうか。
おそらくは次の十年、二十年をかけて…。
閑話休題。本作に戻るとしよう。
SLAYERが、終わる。
今、ぼくらの目の前で。
これまでメタルのヘヴィネスのアイコンであり続けた彼等が、である。
つまりあのうるせーメタルのそのうるささ=ヘヴィネスの象徴が、しかしなんと静かに、テン年代とともに、終わる。
これほど象徴的な話があるだろうか。
これ以上に投影的なことがあるだろうか。
本作は、ロサンゼルスで今年開催された彼等のショウを収めたライブ映像作品である。
が、それ以上に重要なのは、彼等がこれを最後にバンドとしてのオフィシャル作品のリリースを辞めようとしていることだ。
つまりこれがSLAYERにとって最後の作品となるでろう、と言われているのである。
勿論、単体としての一作品として、一ライブ盤として本作を見れば、非常に素晴らしい限りだ。
演奏。セットリスト。熱気。
いずれにおいても、これから終焉を控えたバンドのそれとは思えない程に充実していよう。
しかしそんなことより、この作品がかかえている意味は遥かに重いものがある。
だって、なんと言ってもあのSLAYER、最後の作品だというのだから。
とどのつまりが、メタルのヘヴィネスの緩やかな死の中で、SLAYERがまた、緩やかに終わろうとしている。共に死のうとしている。
本作はただ、そのことを語ろうとしている。
そのメタルのヘヴィネスにより、激しく、しかし静かに…。
ズバリ、言おう。
この作品は、SLAYER最後の新作であるとともに、次の十年を前にしたメタルのヘヴィネスの殉葬であり、墓標である。
SLAYERがいなくなっても、当然ながら、メタルという音楽は、シーンは、バンドは、ツールは、無くならない。
しかし。
SLAYERがこれまでずっと象徴、体現していた、メタルの、ロックのヘヴィネスの、その意味は、恐らくながら死んでいくだろう。
SLAYERと一緒に、メタルのヘヴィネスは、死ぬ。殉死する。そう、ぼくは今、考えている。
おっと。
そうこうしているうちに、もうまもなく年越しだ。
つまりはテン年代の、そしてSLAYERがいた最後の時代の、終焉だ。
そんな、きたる2020年代。
つまりは、SLAYERなき時代を、メタルのヘヴィネスの意味なき時代を、ぼくらはこれから生きようとしているのだ。
※注釈1:社会学者アンソニー・ギデンズ、後期近代社会的「再帰性」を参照のこと。
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