黒雑記2021 08/11:「ロード・オブ・カオス」という映画を見たんだが

黒雑記
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鬱映画と構えて見てたら、ユーロニモスって長髪がいるPOISONばりのパーティーバンドの店で「俺はポーザーじゃねえ」とSODOMの1stを買うコメディ映画だった件。

勿論、デッドたんの「マヂもう無理リスカしよ」もあったよ!

あと、ポーザーバンドバッジ、最初はMOTLEY CRUEだったんだけどニッキー・シックスに激おこで断られたのでSCORPIONSが笑って替わってあげたという逸話をFB仲間から聞いて、いい話だなって思いました。
さすがは大人の器の大きさ!

レコード屋に「Dr.Feelgood」が割と目につくとこにあったのはそういうことか。

…って感じにライトに触れて終わろうと思っていたのだけど(で最初は実際にそれだけだったのだけど)、そんな冒頭の冗談ツイートを映画の公式さまがイイネしてくれたので申し訳なくなり、お礼を含めて少しばかり以下まじめに批評を書き加えておく。

まず、この「ロード・オブ・カオス」という物語の本質は、「ネタがベタになる」というものだ。

「ネタがベタになる」というのは、「ネタ」、つまり何らかの目的に対し「あえて手段としてやっていた」振る舞いから、いつの間にか「あえて」が脱色された結果、「ベタ」、つまりそう振る舞うこと自体が目的となる、つまり「手段の目的化」が生じる現象のことだ。

ここでは、ユーロニモスが「ネタ」としてやっていたブラックメタルが、彼の「あえて」していた振る舞い(手段)から次第に「あえて」が脱色され、カウント・グリシュナック的な「ベタ」、つまりは振る舞いの目的化が進んでいく。

しかし受け手は「ベタ」にたやすく流されるし、「ベタ」をたやすく消費し、そして「あえて」を忘却する。
だから、「ネタ」はすぐに「ベタ」へと頽落する。成熟近代社会のこの世に生きる我々の宿命だ。

大体、80年代から90年代にかけてのロック、いわゆる「HR/HM」はそんな「ネタのベタ化」の連続と横行だった。
オジー・オズボーンは道化のシンガーであって悪魔主義者でもないし、ロブ・ハルフォードは自殺を歌っただけでそそのかしたわけでもない。
「偽物メタルに死を」といったMANOWARの音楽は必ずしも正統派ヘヴィメタルではなかったし、グレン・ベントンは33歳を越えて「誰だって死ぬのはいやだし、俺もそうだ」と答えた。

いずれも元来はメタルという自己表現のために「あえて」そう振る舞っていた「ネタ」だったのだが、いつしか世はそれを「ベタ」、つまり「あえて」ではなくマジでそれを体現すべく振る舞っているのだとされていった。

そして、映画に戻るが、そもそもこの作品はそのメタルらしい「ネタとベタ」の悲劇を、青春映画として取り込んだものである。

しかも物語内のユーロニモスにとって厄介だったのは、つまりこの物語が面白いのは、まずひとつはその落差のなかに青春映画らしい屈折と劣等感、嫉妬といった若者らしい劣情のドラマを盛り込んだこと。
これについては、ここではなく他の論者に譲るとしよう。

そしてもうひとつは、ぼくにとってはむしろこちらのほうが遥かに重要なことなのだが、そこにデッドという「ネタの本物」という存在を織り込ませたことだ。

「ネタの本物」。
つまり「ネタ」として振る舞っているけれど、それがナチュラルにガチだ、というもの。
これを宮台真司的な言いまわしを使って判りやすく説明すれば、デッドとはいわゆる「超越系」の存在だ。(※註1)

いきなり何を言い出したかという人もいるだろうから、簡単に説明しておく。
思いっきりはしょった説明だが、人間はその幸せへのありように対して二種類に分けられる、というものだ。
それが「超越系」と「内在系」である。

「内在系」とは、「ここでの幸せ」、つまりは日常的な生活に幸せや生きる価値を求める大多数の人。
そして「超越系」とは「ここではない幸せ」、つまりは日常的な生活に幸せを求めきれず、例えばここで言うなら神(悪魔も然り)などの「(日常的な)社会」を越えた超越的などこかにしか幸せを求められない少数派の人だ。

本作でいうなら、言うまでもなくデッドがその「超越系」だ。

一方で、ユーロニモスカウント・グリシュナックは、「内在系」。
つまりは後者の二人は「内在系」=「ここでの幸せ」を生きるもの、つまりグループ内やバンド界隈での承認(チヤホヤされる俺がブラックメタルの王だ的)に生きる意味や充足感を見出そうとするものたち。
かたやデッドのみが、「超越系」=「ここではない幸せ」を求めようとしていた。

つまりデッドは、確かにユーロニモスとともに「ネタ」で「あえてブラックメタル」をやってはいたけれど、しかしそれとは全く別に、日常にある幸せ(ブラックメタルでチヤホヤ的)では満足できない存在だった。

もうちょっと詳しく言うなら、デッドユーロニモスも、ともにブラックメタルとは幸せを得るための「ネタ」=手段ではあった。
しかしその幸せのありようが、二人は違っていた。
少なくともデッドにおいての幸せは、ユーロニモスのような「内在系」的幸せ、つまりは社会的承認(ブラックメタルでチヤホヤ)という「ここでの幸せ」ではなく、「超越系」的幸せ、つまりはその日常(=「社会」)の外側の「ここにはない幸せ」のリアリティであり、ブラックメタルという「ネタ」=手段によって、それに触れようとした。

ここにおいては、森の中でユーロニモスがおどけながら向けたショットガンに対し、デッドが頭に銃口を押し付けるシーンが、なんとも象徴的だ。
なぜならそれは、「内在系」が向けた銃口を「超越系」が受けているからだ。

「ここにある幸せ」のために、つまりは周囲からの承認、カッコつけのために銃をかまえる、「内在系」ユーロニモス
「ここではない幸せ」を得るためにあえて銃をうける、「超越系」デッド
ここにおいて銃とはそのための手段、ツールであり、すなわちブラックメタルのメタファーにもなっていよう。
してその顛末は、映画で知るとおりだ。

そしてその「超越系」という「ネタの本物」であるデッドの存在が失われて以降、「内在系」=俗での承認のこぜりあいを生きるユーロニモス的「ネタ」とカウント・グリシュナック的「ベタ」を悲劇へと進めていく、というのが、実はこの作品の面白いところなのだ。

だんだんと複雑になってきたので、今一度ここで、整理する。
ブラックメタルを「あえて」の「ネタ」としていた「内在系」のユーロニモスと「超越系」のデッド
かたや「あえて」を脱色した「ベタ」の内在系、カウント・グリシュナック

手元の紙にぱぱっと書いてみた。こうするとわかりやすいかもしれない。
縦軸は時間の流れ(上から下に)で「ネタ」から「ベタ」へ。
他方、横軸は幸せをどうとらえるかという生き方の違いだ。
それはこれまでの説明どおり、日常(社会の内側)に幸せを求める、ブラックメタルでチヤホヤな「内在系」と、ここならぬ非日常(社会の外側)に幸せを求めるが故に幸せの実感を日常にとらえずらい「超越系」だ。

かくしてバンドは、「ネタ・超越系」のヴォーカルから「ベタ・内在系」という正反対の存在にチェンジするとともに、「ネタ」と「ベタ」の「内在系」同士との確執、つまりは「この社会」における承認問題へと物語が進んでいくのだが、さてその結末やいかに…。

…ってなんだかんだでガッチガチに映画批評しちゃったよ!

ではまた。

 

※註1:本来は丸山真男が説いていた、「社会」と「世界」に対する人間の存在のありようの論だったりもするのだが、まあここではそんな面倒くさい領域に足を突っ込むのはやめて、判りやすくてポピュラーでキャッチーな宮台センセの幸福論を用いることにしよう。

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