FOO FIGHTERS/”But Here We Are”:86p

FOO FIGHTERS
特別、何かの用があるわけじゃなかった。
ただ、本当になんとなく、ふらっと気まぐれに珍しく実家に寄ってみた。
先週、2023年の7月の最初の土曜、7月が始まった日の夕方のことだ。
別に虫の知らせだとか、そんな大それたものじゃ全くない。
たまには親の顔でも見ておくか、そんなくらいの軽い感じだった。
だけど親父はそのとき、テレビを付けながら椅子の上でこっくりこっくりと居眠りをしていたので、起こすのも憚られたからそのままにした。
それにどうせ起こしたところで、「おう」なんて、軽く挨拶する程度しか話をすることもない。
だったらゆっくりと、うたた寝させたままにしておくか。
何だかずっと寝ていそうだな、なんて頭のどこかをぽろっとだけよぎりながら、だけどその日はおかんと少しだけ世間話をして、帰ることにした。
そして、結局。
ぼくにとってそれが、生きてる親父の顔を見る最後になってしまった。
その翌日に突然緊急入院した親父は、こっちが病院に着く前に、それこそ眠るように息を引き取った。
先週、2023年7月の最初の日曜日、夜のことだ。
元から心臓に持病を抱えていたとはいえ、余りにもいきなりの急死だったが、でも最後は安らかだったからそれがせめてもの救いだ。
そして、後から思い返してみると、やっぱり前日のあのとき。
「少しは寄っておけよ」
そう、ぼくは夢の中から親父に声掛けられてたのかもしれない。
FOO FIGHTERSが、いつの間にか11thとなるニューアルバムを出していた。
それを知ったのはリリース少し後、6月の終わりあたりのことだ。
しかも今回のアルバムは、ちょっとばかりバンドにとっては「訳アリ」だ。
なにせオリジナル・ドラマーのテイラー・ホーキンスがいきなり急死し、この世を去ったのは前作の後、まだ記憶も新しい昨年の春のことだ。
(しかもその後まもなくデイヴは、最愛の母親も亡くすことになる)
しかししばらく後、デイヴ・グロールらはその悲しみを超えて、新たにジョシュ・フリーズをツアードラマーとして雇用することで、バンドの歩みを新たに踏み出すことに。
かたやスタジオ内ではデイヴ自身がドラムを叩くことで、かくして作られたのが、この「But Here We Are」である。
本作は、それもあるのだろう、ちょっと変わったアルバムだ。
彼らの作品の中でも異色の、というか、少しばかり特別な意味のある、特殊な存在感のアルバムだ。
確かにこれまで割とコンスタントにアルバムを作ってきたフーファイではあったが、しかし思えば。前作「Medicine At Midnight」からスタジオ・フルレンスとしては2年程度のスパンしかない。
つまりこれは大きな内部事情を挟んでの、でもそのわりには手早く作って出してきたアルバムですら、ある。
だけど、最初に言っておくけど、間違いなくいい作品だ。
「これぞ最高傑作だ!」なんてことは言わないけれど、それでも味わいが深いアルバムだ。
いや、はっきり言ってしまうけど、ここで2年ちょい前に「地味にも程がある」と60pを付けてボロ酷評した前作よりも、ずっとずっと、いい。
少なくともぼくは、そう思う。
「しかしぼくらはここにいる」
そう題された本作には、確かに大切な存在を失ったことへの悲しみだったり、痛みだったり、喪失感やら困惑やら苦悩やらがあちこちに散見されている。
でも、それだけじゃない。
このアルバムは、そこがいい。
このアルバムの、そこにこそぼくは今、いたく共感しているのだ。
「人生って、いつも何かを得たり、失ったり、そのどっちでもなかったりと、結局色々だよな」
ここには寧ろ悲しみの情感の先に、そんな穏やかな達観さが透けていて、それ故の豊かな妙味と深みがある。
「しかし、それでもぼくらはここにいる」
そんな人の心の弱さと、それでも歩む人の力強さが同居するような、人の生きる彩りが感じられるアルバムだ。
例えば、その見事なまでのポップさとキャッチーさでフーファイとしてのご挨拶とお役目を果たす、これぞ「世界一の普通のロックバンド」たらん冒頭2曲。(M1“Rescued”、M2“Under You”)
これらも当然にして至極のレベルで素晴らしいのだが、しかしそれでもあえて言ってしまうと、本作のキモは寧ろそれ以降にこそ、あるだろう。
例えば、M3“Hearing Voices”のメランコリアと美しさのマッチング、アコースティカルなM5“The Glass”にただようノスタルジア。
あるいは、レゲエが何時の間にNIRVANA化するM6“Nothing At All”に、まるで墓標に佇むような穏やかな美感がゆらめくM7“Show Mw How”…。
ある種バラエティ豊かで、そこに彼ららしい軽やかさとメロディックさとともに、緩急様々な情感が映り込む。
装飾を抑えたロウな音作り、言い方を変えれば素朴、とすら取れるようなシンプルなサウンドスタイルも、寧ろここでは効果的といえるだろう。
そして何より、本作最大の聞きどころがそのクライマックスだ。
まずは彼らにしては珍しい、10分超えの長尺曲、M9“The Teacher”。(ちなみに亡きデイヴの母親は教師だったとのこと)
ここではグランジィな淀みで混沌に暗転した後、ブラックアルバム以降のMETALLICAみたいな乾いたミドルメロウ展開を経て、そしてその念情はポストロックの域へと突入。
かくしてアルバムは、ラスト曲M10“Rest”にて、ドゥームとMOGWAIの果て、静かに、そして高らかに鎮魂を果たしながら終えていく。
そう、
「しかしぼくらはここにいる」と、ただ伝えて。
恐らくでしかないのだけど、これはデイブ自身の心の鎮めのために作られた、プライベートな意味合いの強いアルバムなのだろう。
いや、そんなことは突き詰めて彼本人しかわからないことだ。
だけど、例えばぼくがここで本作について今こう書いていること自体がそうであるよう、彼もきっと同じなのではないか、とやはり思わずにいられない。
とそんなわけで、ぼくは先週からこのところこのアルバムばっかりを繰り返し、聴いている次第だ。
なにせ今の状況に一番、このアルバムの情感がしっくりくる。
今のぼくには、このアルバムの気分が一番、ちょうどいい。
というか、しばらく数日はこいつだけをずっと聴いていたい、って感じだ。
But Here We Are。
…さて、と。
で、こっからはまた個人的な話と戻るんだが。
先の通り、結局のところ、ぼくは親父と話さず終いになってしまった。
だけど本当のところ、今更、別に親父に言いたいことなんて、実はもうないんだよ。
もしまた会うとしたって、せいぜい「おう」くらいしかないんだよ。
何せぼくは、一番伝えたかったけどずっとずっと長年出来なかった親父への感謝と詫びも、つい数ヶ月前にしたばかりだ。
こないだ生意気盛りで俺に刃向かってつかみ合いの大喧嘩したウチの長男のおかげで(笑)、父親の身の愚痴のこぼしついでに、それももうすっかり果たしちまった。
だからもう、ぼくから言うことなんてもう何もない。
せいぜい、お疲れさん、位なもんだ。
そりゃあもう少しは親孝行もしておいて良かったろうけど、だけどそうして憎らしいほど健やかに育ってみせた孫の顔を見せられたんだ、息子としての務めは最低限くらいは果たしたんじゃないかな。
てことで、親父よ。
取り敢えず、明日の葬儀の喪主も、残ったおかんの世話もこっちでばっちり務めとくから、安心してゆっくり寝続けてくれや。
せめて今夜ばかりは、このアルバムを聴き終えたら、晩酌もそこそこにしておくからよ。
(以上、こないだSNSに書いたものを起こしながら、そこに加筆を重ねて)

FOO FIGHTERS/”But Here We Are”
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- アーティスト名:FOO FIGHTERS
- 出身:US
- 作品名:「But Here We Are」
- リリース:2023年
- ジャンル:ALTERNATIVE ROCK、GRUNGE、HARD ROCK、US HARD ROCK、POP ROCK、POST GRUNGE、STADIUM ROCK、