調子のあまりよろしくないエアコンに、そろそろ買い替え時かと悩みつつ、おっとやっておこうかコオヒイひいてレコオド流して休日恒例ヴァイナルカフェ。
さ、午後にでもYAMADAいってくっか…。
IRON MAIDEN/「Somewhere In Time」(1986)

IRON MAIDEN/「Somewhere In Time」(1986)
思うに、そのロックは、その音楽は、それ自体だけでは鳴らされない。
何故って、それを鳴らすのはいつだって、その時代そのものだからだ。
「どうしておっさんは新しい音楽を聴かないのか問題」という、古くからとくに若者が不思議がりたがるテーマがある。
昔からおっさんに問われてきた、至極ベッタベタな問題設定だ。
ぼくらおっさんの立場からすれば、こんなことは問題でもなんでも全くなくって、そりゃおっさんとはそういうものだからだとしか思わないのだけど、まあそれはそうとして。
どうやらこれに対する幾つかの答えらしきものが、世にはあるらしい。
曰く、おっさんになると、感性が鈍るから。
或いは、多感な時期に出会った音楽のインパクトが強いから。
或いは、昔から聴き慣れているものの方が接触機会が多いから、そっちを選んでしまう。
或いは単純に、新しいものやトレンドへの興味が減るから、云々。
正解がどれなのかぼくは知らないし、恐らくはどれもそれなりに正解なのだろう。
だけど少なくともおっさんであるぼくが思うに、本質はそれらではないんじゃないかと、そこにはないんじゃないかと、自らの身をもってそう考えている。
では、その本質とは何か。
それは、おっさんはロックの、音楽の背後にある時代性への姿勢やアンテナが更新されないからだ。
どういうことか。
冒頭に、説いたこと。
つまりそのロックは、それ自体だけでは鳴らされない、ということだ。
然るにそのロックが、その音楽がそこに鳴らされるのは、その背後に様々な文脈があって、あるいくつかの価値観があって、カルチャーとすら言えるものがあって、つまりは時代性なるものがあって、そこから生まれた何かであるからこそ、ぼくらはそれをそれとして認知するのではないか。
もっと突き詰めるならば、そもそもぼくらがそのロックを、音楽を聴くという体験は、実はそれらの背後こそを、ぼくらはその作品において味わっているのではないか。
だから時代が変われば、それらの意味性も全く変わってくるし、そうやって時を経てしまうと、新しいロックの背後は違うものになっていく。
例えば1980年代、1990年代のロックの背後にあるものと、2020年代の今のロックの背後にあるものは、仮に同じジャンルだとしても全くの別物だ。
何故なら、そのロックの背後とは時代性だから、だ。
とどのつまりが、時代が違う、からだ。
少なくともロックは、だからこそ面白いのだ。
となれば当然2020年代のロックと1980年代のロックでは、その背後の時代性が違うから、ぼくらはその背後にある時代性に向けてチューニングしていかなくては、そこに価値や魅力を見出しづらくなる。
ところがこれが、おっさんには出来ない。おっさんには難しい。
だからおっさんは時代性がわからないままに、時代性へのチューニングができないままに、新しいロックの背後、向こう側にある「それ」へと自ず触れることになる。
ここにこそ、「どうしておっさんは新しい音楽を聴かないのか問題」の本質があるように思うのだ。
勿論、それで理解出来るものも無いわけではないからに、おっさんだってそりゃそれ相応に新しいロックや音楽を味わうのだが、しかし。
もう一度言うが、そのロックは、その音楽は、それ自体では鳴らされない。
そしてぼくらはそのロックの背後こそを、そのロックの「向こう側」こそを実は味わっている。
そしておっさんは、そんな今のロックの背後の時代性に、もうとっくに変わってしまった「向こう側」についていけない。
その「向こう側」に示された意味、意義、価値、魅力、主張、気分、モード、コード、コンテクスト、シンパシー、存在性、先鋭性、そうしたものを一切合切ひっくるめた時代性に、ついていけない。
やもすれば「向こう側」が変わってしまっていることすら、わからない。気づけない。
だから当然、そうした行為の反復に、興味がわかなくなる。
これこそが先の「どうしておっさんは新しい音楽を聴かないのか問題」の本質なのではないだろうか。

IRON MAIDEN
「Somewhere In Time」。
刻の何処か。
思えばぼくらおっさんは、とっくにかつての時代の何処かに置いていかれた存在だ。
例えばおっさんであるぼくにとって、嘗てロックで見出した時代性とは、それこそこのアルバムの「向こう側」にあった「それ」だった。
「Somewhere In Time」という、ぼくにとってはきらめきにしか映らないこの名盤の「向こう側」には、1986年という時代性が、あの時代のヘヴィメタルというきらめくような「向こう側」があったのだ。
その「向こう側」のきらめきこそを、ぼくはこの名盤で確かにかつて味わった。確かにかつて教えてもらった。
でもこの時代に今の若者が、例え新たにこのアルバムを聴いたとしたって、それはもしかすれば「音楽としての良作」として聴こえるかもしれないが、しかし彼らがその「向こう側」のきらめきを見ることは絶対にかなわないだろう。
だってそれは、あの1986年という時代だからこそ見えたきらめきだったからだ。
今ここにはとっくに失われた、一回性のきらめき、時代性だからだ。
そして。
世のあらゆるおっさん達にもやはり、彼等それぞれが各々味わってきたロックの「向こう側」にある時代性というものがあるのだろう。
彼等皆がそれぞれで生きてきた、時代というものが、各自が見いだしてきたきらめきがきっとあるのだろう。
だからこそ、それを認めないのは、寧ろおっさんとして不幸でしかない。
何故ならこのアルバムがそうであるように、今の若者が知らない、味わえないぼくらだけが生きてきたあのころのリアルが、きらめきが、時代性が、ぼくらが聴いてきたロックの、音楽の「向こう側」には確かにあったからだ。
そうだ。
ぼくらおっさんは間違いなく、これら多くのロックの、音楽の「向こう側」にある時代性を生きてきた。
だからこそ、ぼくらおっさんは今、ここにいる。
だからこそ、ぼくらはあの時代に捉えられたまま(Caught Somewhere In Time)、それでもこの2020年代という時代にも存在できている。
だからこそ。
おっさんは、新しい音楽を、ロックを聴かなくてもよくなれる存在なのだ。

IRON MAIDEN/「Somewhere In Time」(1986)
- アーティスト名:IRON MAIDEN
- 出身:UK
- 作品名:「Somewhere In Time」
- リリース:1886年
- ジャンル:HEAVY METAL、NWOBHM、正統派HEAVY METAL
よって、そのほとんどが70~80年代の古いものばかり。
尤も音楽批評というかしこまったものよりは、大概がただの独り言程度のたわいない呟きなので、ゆるーく本気にせず(笑)読んでいただければ幸いです。