LINDEMANN/「F&M」(2019)
(このレビューは2020年1月11日にFacebookに書いたものです)
人にはそれぞれ、立ち位置というのが必ず、ある。
どこに立てば、最もその人の持っている、備えている能力だったり、才能だったり、技術や経験や知識やらを、効果的に発揮出来るのか。
どこにいれば、その人が、開花するのか。
どこで何をやれば、その人の持ち味が、個性が、適正が、活きるのか。
そういうものが、誰しもにも必ず、あるものだ。
とはいえそれはなんだかんだで、意外だったり、妥当だったり、自覚していたり、していなかったり、見つけられたり、見つけられなかったりと、人によって様々な事情があるだろう。
しかし、その立ち位置を得るということ、その立ち位置を発見できることというのは、その人が生きる上でかなり重要なことであるのは間違いない。
勿論、こんなことは、世界中の誰にだって通じる話であるに違いない。
そう、そんな世界中で違いのない話が、しかし世界中で意外と、意外だったりするのだから、人というのはなかなかにして面白いものだ。
RAMMSTEINのヴォーカリスト、ティル・リンデマン。
彼のソロプロジェクトメンバーとして選ばれているのが、なんとかのピーター・テクレンだと知って、思わず本作に手が伸びた。
ピーター・テクレン。
そう、かのHYPOCRISY、あるいはPAINでの活動で知られている、あの90年代からその名を広めてきた北欧メロデス屋のピーター・テクレンである。
ピーター・テクレン。
その名を聞いて、彼にどんなイメージを諸君らは抱くであろうか。
長らく北欧デスメタルを支えてきた、スタジオ技術も備えたベテランの腕利き。
もしかしたら、そういうイメージかもしれない。
すまん。先に正直に言ってしまおう。
ゼロ年代以降くらいからだろうか、ぼくはその名のイメージに、それほどプラスなものを抱いていない。
もうとっくの昔にとうが立って、枯れてしまった、ロートルオワコン。そんなところがいいところだ。
…っていやはや、それは流石に言い過ぎか。すまん、訂正しよう。
そつはない、しかし、ぱっともしない。そんな、昔からの器用貧乏。
そんな器用貧乏ミュージが、加齢して、今に至っている。
実のところ、ぼくのイメージとしての彼は、それである。
マルチプレイヤーで、スタジオエンジニア。
それはいい。でも、それでしかない。
そつなく演奏をこなしながら、そつなく楽曲を書きながら、そつなく幾つものバンド作品をプロデュースし、しかし。
やっぱりバンドのフロントマンとしては、ややながら、というか普通に、弱い。
つまりは、裏方屋という程でもなく、じゃあ表舞台に出るにはちと決め手に欠ける。
言ってしまえば彼は、そんな印象だ。
さあ、しかし、である。ここからが、今回の本題だ。
そんな、ぼくの中ではかなり微妙な存在感となってしまった、かのピーター・テクレンが、では一体どこに立つと一番その存在が際立つのか。
ズバリ言う。その答えが、ここにある。
華のある一級のフロントマンを、ギラギラした個性的なシンガーを、支える。
それもある程度熟した、要するに彼が理解のできるおっさんの、経歴相応の渋みや深みを備えている、それを引き出すことで味わいや色味を出せるおっさんシンガー。
それを、裏でもなく、また真表でもなく、その真横でもまたなく、そこからほんの一歩か二歩後ろくらいで、支える。
そんな、輝かしい主役を活かすための、脇役。
その主役を、しかし単にスポットライトを照らして輝かすだけではなく、そこに陰りや色味を与えて深みや奥行きすらをも伝えるための、その位置に、徹する。
ピーター・テクレンという男の才能と能力が、持ち味と個性が最も映える立ち位置は、恐らくここであるのではないだろうか。
そして、本作は。
そんなティル・リンデマンという渋みや深みを備えたおっさんと、ピーター・テクレンというそれを魅力的に伝えることに長けたおっさんの、おっさんプロジェクトユニットによる2ndアルバムだ。
サウンド的には、芝居がかったシアトリカルなインダストリアル・メタル。
ぶっちゃけ、まあ細かいところを言えばキリはないけれど、その意味からすればRAMMSTEINに、それ程までに離れていない。
しかし、である。
離れていないにも関わらず、RAMMSTEINの音楽では明らかに、ない。
それはなぜか。
キラキラしたシンセティックさ、しっとり哀感を帯びたメロディックさ。
それらが微妙なスポットで、ティル・リンデマンの個性を照らしているからだ。そう、しかもRAMMSTEINとは違う位置から。
そして、それを見事になしているのは、ピーター・テクレンかの男に他ならない。
そして、これまた再び、正直に明かそう。
ぼくはRAMMSTEINの音楽からでは余り伝わりきらなかった、ティル・リンデマンという歌い手の個性を、ここで初めて、魅力的だ、と感じた。
渋みや深みがあって、すごくいいなって、感じた。
実を言うと、そんなことを彼の歌から思ったのは、正直今回が初めてだ。
なんだろう、どこかレトロなそんな香りのなかで、彼の渋みだったり、深みだったり、色気だったり、たくましさだったり、哀愁の濃さだったりと、そんな照明の当て方の違いに、へえ、と感心したりもしたものだ。
そして。
それを仕掛けて見せているのが、かの北欧メロデス界がほこる器用貧乏、ピーター・テクレンだというのだから、全くもって驚く他にない。
いや、実はそう驚くまでにもない話なのだけれど、でもその一方で。同時に、成る程、と納得をし、頷くのだった。
ああ、そうだ。そうだったのか。ピーター・テクレンとはこういうミュージシャンだったのだな、と。
そう。そうなのだ。
人には各々、それぞれ立ち位置というものが必ず、どこかに、あるものなのだ。

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