本日。
SLIPKNOTの元ドラマー、ジョーイ・ジョーディソンが、46歳の若さで、この世を去ってしまった。
忌々しいことに今朝、清々しい朝の最初のニュースとしてスマホに真っ先に飛び込んだのが、これだった。
クソ…!
なんてこった…。
こんなもの、朝っぱらから知りたいと誰が思うねん…。
ったく、スマホというものは、しょうもないクソ情報ばかりを垂れ流しながら、こんなことをも、それと同様に無機質に、デリカシーもクソもなく好き勝手に垂れ流しやがるから、全く救いがねえ。
にも関わらず、こいつが無いと皆、ぼくもだが、生きられない。
全くもって、救いがねえ話だ。
全く、あの曲から20年経っても、Peopleはやっぱり=Shit、なままだ。
クソ…。
(↑NMEごときが、ジョーイを語るな!)
それにしても、だ。
ジョーイを。
あのジョーイ・ジョーディソンを、世界は失ったのだ。
ということは、偉大なるドラマーを、ぼくらは失った。
…というだけの話では、実は、全くない。
結論から、言う。
ぼくらは、SLIPKNOTを、失った。
少なくともあの時代の、SLIPKNOTを大きく構成していた重要な要素を、失った。
というのも(そんなことはファンならば皆知っているだろうから、今更声高に言う話でもないのは承知の上だが)、実のところジョーイはSLIPKNOTにおいて、ただの太鼓叩きなどでは断じて、ない。
当然のように抜群のテクをほこるとともに、全盛期SLIPKNOTをあの地位にあげてみせただけの抜群のコンポーズ面すらを担い、”あの”けたましい「ビートのメタル」としてのSLIPKNOTの存在感を支え、そしてSLIPKNOTのキャラクターの何たるかを陰ながら大きく基礎で担ってきた。
それが、実はジョーイという存在感だった。
つまり、ジョーイ・ジョーディソンとは、かの全盛期のSLIPKNOTの屋台骨だったのだ。
すなわち、ジョーイ・ジョーディソンなくして、黄金期のスリップ成らず。
ぼくらが今、失ったものは、それだ。
「SLIPKNOT?懐かしいよねー!良かったよねー!」とか呑気に言う、オイそこ。
ぼくらはその根幹を、要訣を、基盤を、今日、失ったのだ。
「SLIPKNOT?ああ、あのサーカスみたいな色物だったやつらね」とかクソみたいなしたり顔でいう、オイそこ。
あのなあ、お前。
ネット環境が整ってきたゼロ年代に、その「色物」だけで世界市場規模で通用したと、まさか純朴に本気で思ってんのか?
その「大所帯の色物」キャラを、音楽面という実力面で陰支えしてきたのが、ジョーイに他ならない。
それらも含めて、控えめにすら言おう。
あの華々しき1stは、あの傑出した「Iowa」は、ジョーイ・ジョーディソンという才能があってこそ、成せたものだった。
それを、ぼくらは今、失ったのだ。
…すまん。
今夜はちとばかり心が揺さぶられて、うまくコントロールが出来てない。言い方が酷かったら、後で謝ろう。
とにかく、その余力すらないくらいに、ぼくはひどく落ち込んでいるのだ。
「ただいまあー。」
父親譲りの人を食ったような、でも気だるそうな生意気な声とともに、さっき、思春期と反抗期を携えた長男が塾から我が家に帰ってきた。
そして、この追悼の下書きを書き終えた後、ウィスキーを片手にリビングでCDを流している父親のぼくの姿をチラっと見て。
嗚呼こいつ。
また酒飲んでは、英語で意味のわからねーヤカマシいものを一人聴いてやがるな。
彼はさも、そう言いたげな警戒心まみれの顔をしたまんま(ぼくが勝手にそう思い込んでいる可能性も否定しないが)、台所の冷蔵庫を開けて食えそうなものをひっつかまえ、そして片手にゲーム機を掴んで、自分の部屋に消えていきやがった。
クソガキが。
クソガキが、いっぱしに育ちやがって。
なお、このガキは、先日迎えた誕生日で、17歳になる。
つまり、当たり前だが、生まれたのは丁度17年前のことだ。
てことは、2004年、生まれ。
そう。
ぼく的には(世的には「Iowa」から著しく劣るとかdisられつつも、そんなことないと擁護してきただけ愛着のある)彼等のド名盤である、「Vol.3:The Subliminal Verses」がこないだ世に出たばかりの話であったのだ。
(2004年5月21日)
KORNじゃないけれど少しだけ、ぼくのことを話そう。
丁度、今から17年とちょい数ヶ月の、初夏の話だ。
ぼくは、とある事情から生まれたばかりのこいつを病院から、一人で車に抱え乗せて家に迎え帰っていった。
その車中は、父親たるぼくと、生まれたばかりの息子のこいつの、二人っきりの空間だ。
そんな赤ん坊と父親を結ぶ、会話も存在しない空間で、流れていたもの。
それを、今でも覚えている。
というよりぼくが意図的に、そうしたのだ。そうさせたのだ。
生まれてまもないこいつが、爆音のロックの洗礼を受けたもの。
それがSLIPKNOTだった。
丁度タイミングよくほんの少し前にSLIPKNOTがリリースしたばかりの、「Vol.3:The Subliminal Verses」だった。
“The Blister Exists “。
“Three Nil“。
“Opium Of People“。
“Before I Forget“
そして、”Vermillion“…。
それを赤ん坊のこいつに、生まれたばかりのこいつに。
ぼくは車内で、浴びせた。爆音で。
ぼくという父親の存在と、こいつという話も出来ない赤ん坊との、その父と息子の距離を、空間を、立場を、「Vol.3:The Subliminal Verses」の爆音が。
SLIPKNOTが、埋めていたのだ。
どうだこれがお前の父だと、ぼくが、意図して、あのとき、埋めたのだ。
なあ、お前、覚えているかい?
このCDは、ロックは、SLIPKNOTの「Vol.3:The Subliminal Verses」という名アルバムは、お前が生まれたときに傍らで、流れていたんだよ。
「いや、覚えているわけねーじゃん。」
そう素っ気なく答えてこいつは、Spotifyでamazarashiを流しながら部屋に行ってしまった。
だよなあ。
やっぱ、そう思うよなあ。
でも、な。
お前が生まれて始めて触れたロックは、浴びせられたロックは今、な。
大事なものを、それを支えていたものを、失ったんだぜ…。
しかし、参っちまうよなあ。
だって、ぼくらが愛した、ぼくらのヘヴィなロック世代は、そろそろ失いがちなところに差し掛かってきている。
やむなくであるが、こう、色々となくなった世界を、かろうじて生きようとしている。
例えば。
PANTERAのダイムバック・ダレルを殺した世界を。
SLAYERのジェフ・ハンネマンなき世界を。
そして、今度はSLIPKNOTのジョーイ・ジョーディソンを失った世界を、ぼくらのヘヴィなロック世代は、生きようとしている。
…でもさ。
それでも、進むしかねえんだよ。
うるせえ、激しいメタルを。ロックを。
ぼくらはそれでも進むんだ、
彼等がいるあの世にもズシズシと、響き渡るくらいにな…。
以上、ジョーイ・ジョーディソン追悼に向けて、でした。
さよならジョーイ。
そして、これまでありがとう。
安らかに眠れ。