「カンチ、ワックスしよっか!?」
てことで連休だし天気いいし余りに車が汚れてるしなので洗車&ワックスがけしてくるんですけど、おっとその前にコオヒイひいてレコオド流して、休日恒例ヴァイナルカフェ。
ACCEPT/「Hungry Years」(1987)
ロックバンドというのは、生きものだ。
だから、寿命だってあるし、変わることだってある。
当然ながら、いつまでもそのかたちが、陣営が、続くわけじゃない。
そのことを初めてぼくに教えてくれたのが、実はACCEPTだった。
1987年。
三十年以上も昔、当然ながら今とは社会的な価値観はもとより、ロックの感性も全く異なるあの時代の、昭和の片田舎のことだ。
TVやラジオから流れるチャートもののポップスだけが洋楽じゃない。
どころか、その先のロック、さらにその先のヘヴィメタルには、思春期のイキった童貞の衝動を満たしてくれるような刺激的なロックが、不良の世界のロックが、ある。
それを知ったぼくは、一通りの基礎的なハードロック・バンドを踏まえた後に、JUDAS PRIESTを経過して、まずはACCEPTにのめり込んだ。
今、当時のシーンの布陣を思い返して見れば、それは決して悪くない初手だった。
その当時、彼等のレコードを持っていたクラスメイトから録音してもらった、ある一本のカセットテープを、ぼくはそれこそ擦り切れるくらいの勢いで、バカみたいに繰り返し聴いていた。
何せそれは当時、
とびっきりにイカしてたんだ。
「ハーイディ、ハーイ、ドーハダッ♪…」
まるで民謡みたいな歌が牧歌的に流れるオープニングに一瞬戸惑うのだが、しかし。
すぐさまその平穏さを叩き割るかの絶叫がつん裂き、同時にそのまま騒音のようなギターとけたましいビートが爆速で突っ走り、その長閑さをことごとく破壊し、阿鼻叫喚へと叩き落としていく。
最高に、イカしてる。
そして、なんというセンスだ。
「ハーイディ、ハーイ、ドーハダッ♪…」という民謡が象徴しているもの。
それはぼくらをがんじがらめにしている平和だが窮屈な日常だ。
その常識と良識への同調圧力を、ルールとレールをやたらと強いる日常を、ブチ壊してやろうぜ。
学校、先生、教科書、試験、校則、大人、気に食わないクラスのクソども…。
そんなクソみたいなもので構成された、退屈で窮屈な日常を、ぶち壊してやろうぜ。
“Fast As A Shark“(↑)。
バンドがどう意図したのかはさておいて、少なくとも。
昭和は関東の田舎町で一人、反抗期特有の自分以外の全てに向けたいらだちを抱え持て余していたガキの目には、その曲は救いの破壊者(「Breaker」)としてしか映らなかったのだ。
大体、曲名もクールじゃないか。
サメのように速い。
サメってのは、ガキの憧れだ。
周囲の常識と良識を血みどろに食い散らす、反抗と強者のアイコンだ。
しかも2曲目は、ロックンロール。
しかもライブ仕立てだ。
#2″Buring“(↓)。
いいぞ、燃やせ、焼けろ、焼き払え、灰にしちまえ。
思春期真っ只中、絶賛反抗期。
誰それ構わず抗いたい盛りで刺々しく鬱屈しまくっていた昭和のガキの心は、このアルバム冒頭二曲に、天晴れなまでに、無様なまでに、がっちりと奪われた。
そう。
そんなふうに、ぼくがバカみたいに虜になって聴いた最初の彼等の作品が、当時確かまだリリースされたばかりのこの「Hungy Years」だったのだ。
やがてそれが正式なスタジオアルバムではないただのベストアルバムだったと後に聞いて軽めのショックを受けることになるのだが、でも今思えばこの二曲の出会いをしてくれたのだから、結果往来だとしか言いようがない。
それはさておき、とにかくACCEPTは、当時のぼくにとって痛快だった。
なんと言っても激しくソリッドなファストチューンは刺激に満ちていた。
ロックを、聴いている。
周りの連中の聴いている音楽より遥かに激しくて、うるさくて、刺々しく、攻撃的で、ワルくて強い、そんなロックを聴いている。纏っている。
そんな昭和のチンケで陳腐な童貞小僧の強がりばかりの自意識を、ACCEPTは奮わせてくれた。
それとプラス、勇猛だし、ブサメンで男臭いってのも、ポイントだった。
当時の女子が焦がれていたような、LAメタルの少女漫画の不良みたいなイケメン軟弱ナンチャッテでないことは、ハンパヤンキーでモテないぼくの慰めにもなったのだ。
なかでもそれを体現しているような、このチビのボーカルが、いい。
ギターだとか何だとか正直よくわからないけれど、やかましいロックの中でやかましく叫んでばかりのこのボーカルが、やかましくていい。
ウド・ダークシュナイダー。
へえ、そういうのか。
そんなACCEPTをもっと知ろうと、過去のアルバムを追っていたある日のことだ。
ふと、そのクラスメイトに、バンドの現状について尋ねた答えへの衝撃を、ぼくは未だに覚えている。
「え、ウド・ダークシュナイダー?
そいつ、こないだバンド辞めたよ。」
なん…だと…!?
昭和の田舎で黒崎さんは、まるでチャドの霊圧が消えたときの黒崎一護とほぼ同じかそれ以上のリアクションをしていた。
いや、チャド以上に黒崎さんの霊圧は瞬時に消えたような記憶が、うっすらある…ような気がする。
尤もその反応も、無理からぬものだ。
だって、ぼくに日常の窮屈さを壊す痛快さを教えてくれたバンドは、なんともうその原型をとどめていなかったのだ。
民謡に象徴されていた日常の良識をシャウトで引き裂いてみせた歌い手は、なんともうそこにいなかったのだ。
ぼくが追っていたバンドは、すでにもう完全に違うものになっていたのだ。
しかもあまつさえ、アメリカで売れたいからという理由のために。
そう。
結局ぼくの破壊者は、何も破壊することなく、ただ民謡のレコードだけを破壊して、そして自らを破壊して、あっという間にいなくなってしまったのだ。
なんたるショックと、喪失感。
ぼくは茫然と、言葉を失った。
駄目だろ、ヴォーカルが抜けちまったら。
駄目だろ、金のためにそれをやったら。
駄目だろ、それはもうぼくが求める彼等の姿じゃないだろ…。
今思えば余りに純朴でナイーブ過ぎる話だが、まあ昭和のイキり思春期童貞の自意識なんて、所詮はその程度の胎児以下な未熟児だ。
いずれにせよ。
かくしてACCEPTというバンドは、ぼくにとって一番最初に夢中になったバンドであったとともに、一番最初に落胆するバンドとなり、そして同時に一番最初に、バンドは生きものであって、いつか終わる日が来るのだ、ということを最速で教えてくれたバンドとして消えていくのだった…。
あれから、三十年以上。
あの時、ウドに、そして彼等に教えてもらった教訓を、この「Hungry Yeas」が教えてくれた教訓を、ぼくは今でも忘れないようにしている。
いや、というよりも忘れそうになりながら、あるいは忘れながらも、しかし様々な折につけ、そういやそうだったと何十回、何百回、何千回と否応なく思い出し返している。
ロックを聴き続けるとはその反復なのだとばかりに、その事実を思い出し返している。
然るに。
ロックバンドというのは、生きものだ。
だから、寿命だってあるし、変わることだってある。
当然ながら、いつまでもそのかたちが、陣営が、続くわけじゃない。
いつまでも、いると思うなバンドメンバー。
今そこにあるバンドの面子は、今だからそこにいるのだ。
ACCEPTは、いや少なくともぼくの中のACCEPTは、それだけを一時焦がれたぼくに伝え残して、そして瞬く間に消えていってしまった。
そう、
Hungry Years。
飢えたぼくらの時代は、そういつまでも続かないものなのだ。
※先週のヴァイナルカフェ(VAN HALEN/「5150」↓)と併せてお読み頂くと、よりエモさが増すのでオススメです(笑)。
- アーティスト名:ACCEPT
- 出身:ドイツ
- 作品名:「Hungry Years」
- リリース:1987年
- ジャンル:HEAVY METAL、正統派HEAVY METAL、POWER METAL、GERMAN METAL、
よって、そのほとんどが70~80年代の古いものばかり。
尤も音楽批評というかしこまったものよりは、大概がただの独り言程度のたわいない呟きなので、ゆるーく本気にせず(笑)読んでいただければ幸いです。