老いてイエスとなったメタルアイコン ~OZZY OSBOURNE/「Ordinary Man」(2020)

アルバムレビュー
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OZZY OSBOURNE/「Ordinary Man」(2020)

OZZY OSBOURNE

OZZY OSBOURNE

(この記事は2020年に書かれたものです)

ジェイク期あたり、からだろうか。
OZZY OSBOURNEのアルバムというのは、言ってしまえば一つの「ゲーム」になってきた。
それは、「オジー・オズボーン」という既に完成されたキャラを、いかに求められるよう再現し、またそれを広げられることが出来るか。
或いは、どんな色をそこに塗れるのか。
それらを競うゲームである。

いかに「オジー・オズボーン」というキャラに求められているものを周囲が集め、それを再生産し、幾つかの新しいエッセンスを加えながらそれらしく施し、そして与えられたそれをオジー自身が、演じるか。
つまりはオジー・オズボーンという一人の生身の男とはまた違った、「キャラとしてのオジー・オズボーン」を、どう演出し、どう作り上げ、どう演じきるか。

そして、驚くべきことに。
このゲームのルールブックは30年以上経っても、ほとんど更新されたことがない。
逆に言えば、それは如何に「オジーというキャラ」が強固なものなのかの証左でもあるのだろうが、とにかく。
ぼくらはここ30年間をかけて、そんな「オジーというキャラをめぐるゲーム」をずうっと回し続けていたことになる。

何せ「キャラとしてのオジー・オズボーン」というのは、それだけ強力な引力をもった、ヘヴィメタル装置だ。
そこにはBLACK SABBATHという伝説、そしてそこからランディ・ローズとともに米国80年代音楽シーンの騎手となり、それを担っていった、という奥行き深いビッグストーリー、つまりは揺るぎないほどに強い「物語」がバックにある。
いわば「ヘヴィメタルという物語」に支えられた「キャラとしてのオジー・オズボーン」
これは確かにこの上なく強力であるし、そんなゲームの反復をさせるにも十分足るものなのだったのだろう。
「オジーというキャラ」がずっとメタルとして使い回され、リサイクルされ、それがあることで「オジー・オズボーンというメタル」たらしめてきた、いわば「ツール」化してきたのも、成程、かくが所以である。

思い起こせば、世にBABYMETALが出て、そして羽ばたいたとき。
今からすれば最早10年も前になるが、ぼくはその現象を「これはツール化されたメタルの時代の象徴だ」と主張し、こう言った。

恐らくメタルはこの後、ただの「メタルらしいもの」「メタルであることを弁証」するための、自己言及のための「ツール」となっていくのだろう。
勿論そんな予兆ははるか前からあったのだが、今後はそれがより顕著に、そして当然のものとなっていくに違いない。
「再帰化されたメタルの時代」
言い方を変えるならば、「ツール化されたメタル」はそう言い直してもいいかもしれない。
いずれにせよ、あの頃からぼくはメタルはもうそれでいいと思ったし、いやそれも時代の流れなのだろうと、その時にはかなり肯定的な意味を込めて、そこで語った。

で、そして十年、だ。
実際に、今やどうだ。
あのときの想像以外の幾つかの余波や戻りはあったが、しかしやはりメタルのツール化は、着々と進んでいるではないか。
如何にツールとしてメタルを上手く使うか。
ちょっと俯瞰した目線になれば、今やそういうゲームがメタルを支配し、それが当たり前のようになっているではないか。

おっと、寄り道に進みすぎた。
本題に戻ろう。さあ、そこで本作だ。

お爺ちゃんオズボーンによる、ツールゲーム20年代更新版。本作を一言で言うなら、最早そこに尽きる。
周りがお膳立てした「これがオジー」「これもオジー」という「キャラとしてのオジー・オズボーン」を、お爺ちゃん自らが演じることで、さも健在だとばかりに演じている。
これは本作での、紛れもなく事実だ。

再帰的オジーの、乱交プレイ。
キャラ本人を使った「オジーというツールとしてのメタル」の詰め合わせ。
ここにある、そこに由来したある種の不自然な醜さを、どうして見ないでこのアルバムを高評価できるのだろうか。
それはズバリ、彼らはここに使われている「ツールの品質の良し悪し」しか見ていないからだ。
そしてそれこそが、ツールの時代への無自覚さなのではないのか。

これを、否定するのならば、聞こう。
このゲームを否定できるほど、ぼくらはオジーへのアイコン化に自覚的だったろうか。
人は皆、年を取る。
人は皆、老化する。
人は皆、衰える。
人は皆、ゆっくりと死に向かう。
ロック的な幻想などでは全くなく、生物学的に(いやこれが明確な現実だからこそそんなロック的幻想に取り憑かれたいのだろうが)、間違いなく、人は皆、老いて死に向かうのだ。

そしてそんなオジーの等身大に、人間性に、ぼくらは一度でも寄り添えて来なかった。
いや、時に寄り添いながら、それでもツールに、キャラに、甘えた。
そして、架空のメタルアイコン、ロックヒーローを、ぼくらはあまりにオジーにかぶせ過ぎた。
ツールに、頼り過ぎた。
でその結果が、いま、ここにある。
その無様さが、怠慢さが、30年以上もかけて見るも醜悪に至った結末が、本作のこれだ。

事実、まじまじと本作を見るべきだ。
「オジーというキャラ」の成れの果てを、老いさらばえた結末を、まじまじと、今こそ見るべきだ。
かつて「MAD MAN」を名乗った男が、今や「ORIDINAY MAN=普通の男」を題している。
そんなオジーという一人の生身の老人が、あえて作品タイトルで懸命に、自虐的だが全く笑えないにも関わらず道化のようにおどけてそう見せていることの、滑稽で悲痛で無様な真意こそを見るべきだ。

このアルバムの痛さは、悲しさは、周囲が用意された仕掛けだけで演じてきた「ぼくらのオジー」への痛ましさは、本来ならぼくら皆が各々で背負うべきではないのか。
にも関わらず本作の楽曲、つまりはツールの出来の良さを呑気にイジっていて、それでいいのか。
そんな余りに無頓着で、余りにイノセントで、余りに残酷で、果てぼくらはそれでいいのだろうか。

そう思うとき、鋭い人なら、そこで気づくだろう。
その意味で、だ。
驚くべきことにオジーは、今やキリストとなって、ぼくらのかわりにこのアルバムに、音楽に、メタルに、罪を追って張り付かれているのだ。
「普通の男」であるという老人オジーが、メタルアイコンという十字架に貼り付けられているのだ。

メタルは、正確に言い直すがヘヴィ・メタルというものは、所詮は大衆消費のための商業製品であり、つまりはポップ・ミュージックの一つでしかなく、当たり前だが「生き方」でも実は何でもなくって。
にも関わらず、その事実を見たくない、それ以上の何かであって欲しいという連中がすがりついては消費して、だけどもうそこには何もなくなって、それらしいものを使いまわしては「これがメタルだ」とありがたがっては、見ぬふりをして…。
そんなメタルの罪を、普通の男オジーが、背負おうとしている。

今一度、言う。
ぼくらは「ツール化されたメタル」の時代を、今、生きている。
そしてここにあるものは、それが生んだ悲しき「オジーというキャラ」の成れの果て、である。

DATE
  • アーティスト名:OZZY OSBOURNE
  • 出身:UK/US
  • 作品名:「Ordinary Man」
  • リリース:2020年
  • HEAVY METAL他
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