わたくしといふ現象 ~MYRATH / 「Shehili」(86点/100)

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ロックとは「わたくしという現象」を捉え描く「心象スケッチ」だ

MYRATH / 「Shehili」(2019)

「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)」
(宮沢賢治「春と修羅」より抜粋)

かの宮沢賢治の詩集「春と修羅」の序詩にて、上にあるよう著者賢治は、「わたくし」とは「わたくしという現象」のようなものであると説いてみせた。
即ち、自分、自我とは、自分という”実体”のことではなく、自分という”現象”のことだ、と言っているのである。
しかも彼はその”現象”とは「風景やみんなといつしよに」、つまりは”他者”~自分をとりまくありとあらゆるもの~との関わりによって生じる、様々な要因が織りなされることで形成されるものだ、と続けて示した。(=「透明な幽霊の複合体」!)
更に。これらを経て、賢治はこの「春と修羅」という自身の作品自体に対して、かくも述べている。
そんな、自分という「現象」こそが、いわば自分だという自我こそが、「心象スケッチ」イコールこの詩集、を作ったのだ、と。
つまれば、このことは。
詩とは、”他者”つまりは文化や環境や歴史や人やその他ありとあらゆる自分をとりまくもの、との関わりによって作られた、自分という”現象”を捉え描くこと(「心象スケッチ」)だ、と読めるだろう。

さて、詩とはすべからく”ウタ”、である。
曰く、ロックとは、音楽とは、その多くが賢治の説くところの「わたくしという現象」を捉え描く「心象スケッチ」であるだろう。
再び、繰り返す。
この「わたくしという現象」とは、他者、つまりは文化や環境、自然、人、歴史、宗教、気候、地、都市、空気、その他ありとあらゆる自分をとりまくものとの関わり合いの産物のことだ。
だからこそ、ウタには、音楽には、ロックには、様々な人間の長き営みの蓄積が、文化や歴史などなどが、刻まれるのである。

北アフリカ、チュニジア。
ロック辺境の地、といっても差し支えなかろう、彼の地からデビューしたMYRATH。
尤も我々においては既にLOUD PARKでお披露目済みな彼等の、フルレンス5枚目がこの度届いた。
パーカッシヴな民族リズムや、オリエンタルスケール。それらのエキゾチシズムをふんだんに取り込んだ、エピックかつプログレッシブな独特のメタルスタイル、それが彼らの音楽的基軸であることは既に知られている通りだ。
無論、本作においてもこの方向性は健在で、これまでの延長線を踏襲しつつ、しかしよりハイスケール、ドラマティックに確立、かつ完成。
結果、遥かチュニジアの地において孤高の音楽表現を花開かすに至っている。
アラブ文化と、ヘヴィメタル。
伝統音楽と、現代音楽。
イスラムの歴史と、ロックミュージック。
北アフリカのルーツと、モダニズム。
今の我々からすれば一見ユニークな組み合わせに見えるそれらは、しかし彼等にしてみればともに「わたくしという現象」を形作るに欠かせない重要な要因たる”他者”に他なるまい。
いや、だからこそ。
かくして描かれし「心象スケッチ」の、その燦然とした稀有さ、世界で彼等以外描き得ないその唯一無比さたるや、どうだ。
「辺境」の個性を混ぜ込んでいるから凄い、面白い、のではない。いや、確かにそれも無いわけではないのだが、少なくとも本質はそこにない。
ではなくて、そのことがアイデンティファイに自我「わたくしという現象」を刻みつけているから、ロックであり、価値があるのだ。
このことをたやすいご当地グルメ程度に片付けたり、果ては作品レベルの比べっこにふける前に、我々はもっと真剣に踏まえるべきである。

DATE
  • アーティスト名:MYRATH
  • 出身:チュニジア
  • 作品名:「SHEHILI」
  • リリース:2019年
  • PROGRESSIVE METAL他
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